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日本刀に関する耳寄り情報などをご紹介します。

日本刀変革史(下)

 前回に引き続き日本刀の変革史を見ていきましょう。

 後小松帝御宇の明徳の頃に、さしもの南北両朝の相克もついに統一を見たのである。従ってこの時代は長い間の国を挙げての戦塵がようやく納まって、世態はたとえ一時なりであったとはいえ兎も角も小康を得たという状態であったのであります。
 殺伐なる戦いに飽いていた、あらゆる階級の人々の間に平和的なものを求める思想が勃興して、美術、芸術、歌舞、楽曲などが非常に賛美された結果としてあの絢爛豪華な東山文化を生んだのであります。
 これに付随してこの時代を期して人情風俗などに著しい変化があったのであります。
 とりわけ武士の刀剣佩用法の変化などはその内最も重大なるものであったのでありましょう。
 すなわちこの時代までは武士の刀剣佩用法は、図1の如く太刀として刃部を下に向けて腰に佩き吊るされていたのであります。それがこの時代から図2の如く刀と称して帯の間に刃部を上に向けて差す様になったのであります。
図1 図2 

 

 そのため従来までの様に、三尺もあるような長い刀剣であると帯の間に差した場合には鞘の最下部(小尻)が地上に触れてしまう理屈であります。ゆえに、刀剣の寸法がこの時代に新しく造られるものは二尺四五寸くらいに短く造られるようになり、従来からの三尺もある太刀は元のほうから切り詰め短くして使用され始めたのであります。この事が現在大磨上といって銘のないものが多い一つの原因であります。
 更にこの頃から脇指と称しまして、長さが一尺四五寸くらいのもので、刀と同形のものが始めて造られたのであります。
 これは長いのと一緒に二本並べて左腰帯の間に差す様になったのであります。後世これを大小と呼ぶようになりました。
 平時戦時両方とも当然変革されたのであります。
 刀身についてのみ見るならば、単に寸法が短くなったというだけであって、外見上なんら異なる所がないので、太刀の区別は刀身のみでは判然とせぬ訳でありますが、在銘のものに限りまして、銘が従来のものと反対の側に刻む様になったのであります。
 刀工が自己の作品に銘を刻む場合に少数の特別のものを除いた以外は、大抵人体に付着した場合外側に出る方に刻んだのであります。
 すなわち図3の銘の刻み方が室町時代以前で、図4の刻み方が室町期以降であり、前者を太刀銘、後者を刀銘と申します。
図3 太刀銘 図4 刀銘

 

 室町時代の末期から織田氏、豊臣氏時代の初期までは、所謂群雄割拠の戦国時代でありました。
 朝に前敵を迎え、夕に後敵を撃つという乱世でありましたので、全国的武士階級に起こった刀剣の需要は物凄いばかりであったと思われます。
 この時代における代表的なる刀剣の生産地でありました備前国長船、美濃国関の両地に刀工の数が何百となく激増して、その他全国的にも製刀能率がグッと上昇をしたのであります。需要が何しろこのような情勢の下にあっては、生産方面においては必然的に粗製濫造をされた刀剣が、社会に送られたのもまた致し方がなかったのであります。
 刀工としての立場から、百年の後の状態には何も考慮を加えずして、ただ差迫った明日の合戦にのみ役立てば良い位の気持ちで造ったものでありますから、四百年余りの現在においてはこの時代の濫造刀、これを数打ちと称しておりますが、これらはほとんど見る影もない廃刀と化してしまっているものがその大部分であります。
 しかしながら、この時代の作刀は全部が全部数打ちばかりであったのではないのであります。中には相当の地位の武将が、特に注文をして入念に作らせたものもあります。
 これらを注文鍛と称しております。備前長船鍛冶などは特に数打ちと注文鍛の区別がハッキリとしております。
 例えば銘文に「備前国長船住与左衛門尉祐定 永正何年何月日 主何某之為造之」というように刻んであります。
 このようなものはその時代特有の作風で堂々たる技量振りを示したものでありまして、現在でも多数残されてあります。
 豊臣末期から徳川初期へかけた慶長の頃から以降の刀鍛冶を指して新刀鍛と呼んでおります。
 この頃から製鉄業と交通とが発達を致しましたので、ほとんど刀鍛冶は全国的に同質の鉄を使用したものもあるようになりました。
 徳川初期時代は中々武術が隆盛を極めておりましたので、豪壮なガッチリとした分厚な刀剣が造られました。我々はこれを新刀格好と称しております。
 刀工の分布状態は、従来までのように武力政治の中心地一箇所のみへ参集する風がなくなりました。それは封建制度の確立を見たので各大藩の下に刀工は皆集まったからであります。
 あるいは大阪の如く、武力の中心たる国主大名もなき単なる商業交通の中心地へも刀工が集合した状態も起こったのであります。新刀期の著名工としては江戸長曽祢虎徹、山城京堀川国広、大阪津田助広、肥前忠吉などなり、徳川末期に至りましては、爛熟した文化が刀剣を装身具化して光輝ある日本刀製作の技術が全く地に落ちてしまったのであります。
 この衰滅せんとした造刀術を、幕末時代に至り折からの風雲に乗じて江戸に来り、改良を叫んだのが出羽秋元の臣、川部儀八郎正秀すなわち後江戸刀剣界の巨匠、水心子正秀その人であります。
 来り教えを乞う門人何百人、まさに幕末新々刀界の大教育者であったのであります。
 当時江戸には信州から源清麻呂も来り、水心子一門と対抗していたのでありました。
 そして彼らによりまして、廃滅せんとした旧法がようやく支えられて現代に至ったのであります。

 

(NHK「ラヂオ・テキスト 刀剣講座」より)

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