蟷螂の斧に瓜図鐸 銘遊洛斎赤文(花押) 庄内住人一広
弊社所蔵の「蟷螂の斧に瓜図鐸 銘遊洛斎赤文(花押) 庄内住人一広」(弊社所蔵品)が日本刀剣保存会発行の「刀剣と歴史 令和元九月号」に掲載されましたので、以下に掲載致します。
「蟷螂の斧に瓜図鐸 銘遊洛斎赤文(花押) 庄内住人一広」
変わり八角形鉄磨地両櫃片側赤銅埋 薄肉彫鋤残し耳金銀素銅象嵌色絵小透かし
縦8.5cm横8.1cm
遊洛斎赤文(寛政二年~明冶八年)は桂野氏、名を正蔵と言う。寛政二(1790)年三月三日、桂野雲軒の二男として越後国村上で生まれた。兄に光長(鷲州)、弟に忠吾(南山)という金工一家に生まれ、環境にも恵まれて素質も充分であった。青年になり金工を志して江戸へ上り、浜野一門に学ぶと伝える。
桂野家史によれば、性格は豪快で、良く髭を伸ばし、一見常人とは思われないような風貌であったと言い、名人気質で気が向けば一心不乱に製作するが、気が向かないと誰が頼んでも頑として製作しなかったと伝えられている。文政七(1824)年に庄内藩主から召抱えの声がかかり、藩エとなる。
本作は、鐸下地を刀工の難波ー広が鍛えた物である。一広は、難波勝次郎と言い初代池田一秀の門人となった人で、羽前国鶴岡四ツ輿屋住とあり鉄鐸の作品も現存する。
さすがに鉄の鍛えが良く、図柄は蟷螂(カマキリ)が首をシャクリ上げ、今まさに車輪を迎え撃たんとする様子を薄肉彫として表現し、金銀素銅象嵌色絵を施す。鐸の八角形の姿形も不正形の美ととらえ、ひと時代古く見える作風であり、遊洛斎赤文の会心の鐸と思われる。
(刀遊亭極楽蜻蛉)
《※本記事は、特定非営利活動法人 日本刀剣保存会が発行している「刀剣と歴史」の「令和元九月号 ――第七四九号――」に掲載されたものです。》