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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第十節 水心子、直胤、清麿時代(新々刀)

日本刀の形態研究(十四)

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第十節 水心子、直胤、清麿時代(新々刀)

 新刀の最盛時代は寛文、延宝の頃でして、天和、貞享を界として漸次衰運に向かった事は前に述べた通りです。享保年間一旦復興の機運を見たもののそれは将軍吉宗の異例の奨励によるものでして時代の泰平が浸透するに伴い武士階級の頽廃が来り刀業の衰微は最も著しかったのです。日本刀の歴史に於いて享保以後宝暦に至る間は明治廃刀令の当時に於けると共に刀工の最不遇の時代です。故に系図には代々家系の連綿たる存続を見せながら、実際の作品となると極めて微々たるものです。例えば三善長道が系図に於いては何人も連続していますが、作品は初代に限られている如きです。そして量的には勿論の実質的にも勝りたるものを全く見ないのがこの期の状態です。
 然るに宝暦をすぎて安永より寛政に及ぶと再び刀工の活躍がぼつぼつ乍起こって来るのは、泰平の夢漸く覚めんとする時世の結果です。内に尊王論の台頭と共に外に異国船の近海に出没するものあり、世上漸く緊張を加えて来たのが見て取れます。以後尊王攘夷、開国の議論の沸騰と共に倒幕運動の展開に至る幕末史の慌しい場面がくり広げられるに至ったのです。刀工の活躍はこれ等の新しい社会情勢と相応ずるものであるのは勿論で、ここに新々刀時代が画せられるのです。
 新々刀の先駆者はいうまでもなく水心子正秀です。恰も国学に於ける加茂眞淵翁の如く。廃れていた刀剣界に古刀復古の運動を起こし一門に俊秀を網羅してこの界の淵叢をなした真に逸材とされるべき人物です。水心子は川部義八郎と称し羽前山形の藩士です。身は伝統の刀鍛冶の家にも生まれず、それでも早くより古鍛法の廃れるを嘆き諸方の門を叩き苦心して備前、相州の二伝を修めたといわれています。この点は彼の真実偉大な識見に基くといってよく、先覚者たる水心子の地位は高く評価されなくてはなりません。さればこそ大慶直胤、細川正義の如き逸材をその門下に止め得たのでしょう。また当時親譲りの刀鍛冶に於いても、長らく業の不振のため鍛法も多く廃れていたので刀工名をそのまま続けて続けていても実際には野鍛冶、刃物鍛冶等々類似の業に移っているものが少なくないという風がある。相州の名門綱廣、会津の長道、仙台の国包などの如き連綿たる家柄を誇る人々さえ一人鍛冶の正秀の門に入って修業しているのですから、正秀のそれ迄の努力たるや並大抵ではなかったことが想像されます。
 始め下原吉英の弟子となった事も事実らしく「於出羽山形藤原英国作之」真十五枚甲伏鍛と銘ずる一刀は作風、切銘共に「武蔵丸吉英」とある作品に彷彿たるものがあります。しかし彼の研究心は無気力な田舎鍛冶の下に甘んじている事も出来なかったらしく間もなく江戸に帰ったようです。その後相州綱廣(正秀の弟子綱廣の祖父)石堂是一等とを訪ねて大いに研鑽に努めたのでしょう。この間の消息は水心子の書簡集に窺われますが、我々はここに於いては専ら彼の作品を取ってその道程を考察する事に致したいと思います。
 その初期時代濤乱刃より出発しているのは、当時刀剣界の流行が鎌田魚妙の影響によってこの刃文に支配されていた事を物語るものです。その証拠として正秀のみならず新々刀の有名な刀工の多くは濤乱刃から出発している事を注意すべきです。尾崎助隆、手柄山正繁、長運齋綱俊などが等しく濤乱刃を焼いているのも魚妙の津田助廣賞賛の要因でしょう。
 この事に於いて当時の刀剣界がなお平和の裡に沈潜していた事を知りえるのです。寛文の盛期に於いてさえ刃文の多様、変化の複雑等すべて平和の具現が著しかったのに、元禄以降は最早刀剣の不要時代とされるまでに刀工の衰微を来した事は平和の浸透の著しくなって来るのを見るのです。しかし刀に関心を失うのは武士にあって武を棄てるにも似ていますから嗜深き士にあっては決して怠にする事は出来ないのです。故に刀剣鑑賞のみはここに如何程平和が続き刀鍛冶の不振が著しくても依然としてこれを続けなくてはなりません。
 鎌田魚妙は刀剣知識に於いて一代に冠絶し、その嗜深き事に於いても当時の武士の間に傑出するものであったに相違ないと思われます。
 その新刀弁疑は魚妙が深き薀蓄を傾けて一般人士のために慶長以来の新刀に付いて、世上に横行する偽物の疑惑を除き鑑賞の規矩を授けんとしたものです。
 そのいう所は「磨を俟たずして鉄の乾潤を知り、試を俟たずして物よく切るを知る」にあって骨董を弄ぶ如き態度とは異なる事を主張していますが、実際に推奨する所は津田助廣、井上眞改を始め、大坂新刀が優位を占めています。この事は名刀の具備すべき必件として匂沸を最も重んじ刀の観察は匂沸を中心にしている結果です。この事は平和の刀剣たる新刀が真実に平和的鑑賞の理論的根拠を得たものでして、魚妙の論の全体的な当否は別としてやはりこの道の一権威たるを失わないのです。しかし彼が以て範として神田白龍子の新刃銘盡と比較する時は自ら著しい相違を見ない訳にはいきません。白龍子にあってはなおその旨とする所実用にあり、その選択も魚妙に比べれば自らいう所に忠実であるのが窺われます。その推奨する所は忠吉、国廣、虎徹、繁慶の四人です。


「肥前忠吉」
 肥前国の住人忠吉は近世無双の上作、新身第一と謂うべし。元祖忠吉は慶長の頃の鍛冶にて・・・・・乱刃あれども多くは中直刃を専らとす。地鉄の鍛至って美しく能つまり、沸濃やかにしずみ、帽子しまり太刀の形そり有て勝れてよく出来たるは延壽或いは青江の如き多し、至極の上手にして最上の業物也。

「堀川国廣」
 凡新刀の鍛冶数百人ありといえども国廣、忠吉が如き相応したる上作なし、国廣が出来第一地鉄細かに美しく沸至って深くこまやかにして匂深し。多くは広直刃也。乱刃は丁子乱れの如きもあり、切物極めて上手也。刀の格恰位あり重ね強て厚くなく重々の上作とすべし。

「長曾禰興里」
 虎徹の作第一地鉄つまりて、鍛え細かに鉄の色するどく黒くして。沸静みて細かに僅かに匂あり。多くは広直刃、或いはのたれ、乱れあり。切物上手也、最上の物切にして新身第一の上作誰かこれをどうして指料としないことができるだろう。

「繁慶」
 繁慶は江戸鉄砲町に住んで鉄砲鍛冶でした、慶長の末元和頃の人といえる、子孫今は江戸に住んでいる。しかれどもその術は子孫に伝えずその身一代の鍛冶也。繁慶自然と刀を鍛える事を好みうむに随ってこれを興す。新身第一の上作物切の随一。地鉄の鍛え至って細やかに広直刃或いは湾刃の類多し、いづれも沸深く細やかにして、至ってよく出来たるは古国弘が作を見るが如し、地鉄はだ黒く焼刃しるく見える如きあり、多く鍛えざるによってこの作世に少ない・・・・・。

 以上の如く地鉄刃文に対する観察は今日の我々の眼から見れば、何れも類型的で不十分ですが、業物たるべき事が着眼の骨子たるが如くこの点によき鑑識を備えた者という事が出来ます。

 魚妙に至ると刀剣の匂沸を中心にその考察がなされています。蓋し「匂は水火に過不及の過なくして鉄の精神備なりし所に現れたる金気の本然金生水の水にして剣の魂也」「名人の業とする所は匂にて沸を包むを最もとする匂薄く沸多きは裸沸とて嫌う也」と名作の備えるべき条件を明らかにしています。
 この趣旨によって新刀々工中最称揚するところは津田助廣です。「およそ新刀の鍛冶数百家ありといえども助廣の如く鉄のしまり程良く刃の上麗しく匂深く浮きやかに白く小沸あり沸も匂を抱き、いかにも物深く地鉄強からず柔からずして火加減至極の所を得たる名人はあるべからず」といっているのを見れば助廣の真価を如何なる所に発見したか容易に察する事が出来ます。匂沸を中心に刀の真価を決定する事自体は誤りでないにしても魚妙がその視覚的な美しさを中心としたところに時代の平和的趣味が不知裡に彼の鑑刀の態度の中に含まれてしまったのです。
 そしてこの事は魚妙が助廣の濤乱刃を称賛した事によく現れているとすべきです。後年刀剣実用論を以て魚妙に対立した正秀も初期に於いて濤乱刃を残しているのはやはり世上の刀工と同じく平和的雰囲気の中にあるという事ができます。蓋し刀工の如く一定の技術習得に相当の修行を要するものはそれだけ伝統の支配を被るのは免れないところでしょう。世間の要求に従って急激に新たなる作風に転換する事も考えられますが、それは古きを棄てる事ではなくあくまで父祖の法に忠実なことで得られるものです。殊に水心子の世に出た時代は刀業衰微して濁力よく意のままに良い刀を造れるもの殆ど稀な状態であったと思われます。かかる困難と戦いつつ鍛法の修得に努めた時世上にもてはやさるるものが濤乱刃であったとすれば彼もこれが製作に努めた事も当然です。
 しかし漸くその名聲の昂ると共に門流の繁栄があり、又一方たゆまざる技術的修練と共に一家の見識を備えるに至り魚妙の態度に嫌いなく思うに至ったのでしょう。時世漸く泰平の夢から離れ内外共に緊張を加え来たった時自ら反省が来なくてはなりません。ここに新刀弁疑の平和的鑑賞が水心子の刀剣実用論によって難ぜられる結果になるのです。即ち沸匂の論議よりも切味や折れ曲がりに対する考慮が鍛冶の立場より主張されるに至ったのです。正秀の小丁子、中直刃は当にその現れです。
 即ちここに於いて鑑定家に対する鍛冶の立場、見るものより造るものの優位が主張され、従来平和の時世に於ける見るものの支配的な地位が水心子によって転覆されたというべきです。こうして新たに刀匠の活躍時代となったのも幕末の騒然たる世情の然らしむところです。
 水心子は新刀なるものの出現は慶長以来鉄山にて製せられる鋼を用いて造刀するところによるのであり、古刀と違ったものが新刀の特徴をなすのは(匂沸の殊更顕著な事)鋼の質が異なる故であると説いたのです。即ち古刀と同じく鍛冶自ら銑をおろして鋼に作り之を以て刀を造るならば古刀と同じきものを得るであろうと考えたのです。
 この事は魚妙が認めた新刀全体に対する水心子の立場を示すものであり、古刀に復古する事こそ実用本位の刀剣を得る所以と考えたに他ならないのです。
 この主張が水心子に於いてなされ彼を中心にその信念に基いて鍛刀された事実よりして日本刀の歴史に於ける彼の功績は大きいといわなくてはならないと思います。確かに技術に於いて大慶直胤は正秀を凌ぐものがあったと思いますが、以上の意味からして水心子は特筆に値する刀工といわなくてはなりません。その人格もよく門下に逸材を集め得たると共に同時代の刀工が等しく望む受領の如きもなさずして水心子正秀に終始一貫する事もその信念の確固たるを窺う事が出来ます。
 水心子正秀と相並んで新々刀期に重要な地歩を占めるものは山浦清麿です。新々刀の勃興が幕末の緊張と共に漸く起こり来たとするならば、清麿はその騒然たる世情のさまをそのまま作刀に表現したかの如き刀工です。彼も水心子同様専門の家鍛冶の家に生まれずして一家をなした点が注目できます。正秀等が主として古法による備前伝を宗としたるに対し、清麿は相州伝に終始しています。彼の作柄は他の方面に於けるその天才的な手腕にも似ず初期時代を除けば一貫して互の目乱の一点張りです。この点正秀、直胤等の直刃、丁子、乱れと多種多様に亘った作風と対照的です。
 私はここに彼の長曾禰興里を思わずにはいられません。勿論その人格に於いて興里は実直そのものの如く清麿は才気煥発の違いを見せる如くではありますが、作風の一貫という点で両者は共通的なものを有っています。これは切味中心の作者は自ら変化に乏しくなるのだと考えざるをえません。
 この意味に於いて清麿こそは水心子等より真実刀剣実用論の実行者であったと考えられます。水心子にあっては刀剣実用論も古刀復古と相関係する事に於いて鍛刀の努力はなおその事に集中できなかった感あるのに対し、清麿にあっては雄刀を鍛える事がその目的であったので、作風の種類の如き自然変化乏しい状態になったのでしょう。幕末の急な風雲を象徴するものは正秀でも直胤でもなく清麿その人であるとすべきです。彼が勤王の士であったか否かその点はなお措くとしても作刀に籠る気魂こそは時代の͡子たるに適しいとされなくてはなりません。
 今日清麿の賞鑑厚いのも決して故なきに非ず単に鍛刀の技術からのみ見れば直胤、正秀に譲るかもしれません。しかし烈々たる気魂に於いて残せる作品は彼らの上にある様に思われるのです。
 その酒癖奇行が清麿の真実の生活を覆いて容易に面目を把握し難いのですが、彼の作品の終始一貫した態度にて製作されている事に於いて、又子弟を思う情愛に於いて他と異なるものがある事等を見れば確かに傑出した人物であったに相違ありません。栗原信秀、豊前守清人、鈴木正雄等その指導を受けたもの皆師の衣鉢を伝えてその名を辱めず独自の手腕を現わしているのは清麿のよき感化の故でしょう。
 正秀、清麿、直胤と共に相対して別個の地位を築くもの備前介宗次、左行秀、薩摩の元平、正幸、濱部壽格、肥前の八代忠吉等です。
 以上正秀の中央部に於ける刀鍛冶復活を中心として述べましたが、前時代から独自の伝統により刀鍛冶を続けているものがあります。
 それは薩州で、薩州の正良、元平は水心子に続いて既に安永年間は作品を現わし伝統の相州伝を造っています。因幡の壽格等も兼吉等の跡をうけ天明年間に既に作品を造っています。
 ともあれ新々刀の繁盛は幕末史の展開と共に起こったものである事はいい得られるところです。
 故に慶応三年大政奉還と共に又急激な没落の底に沈淪する事になったのです。
 慶応三年大政奉還と共に徳川幕府の終焉があり明治四年廃藩置県によって封建社会は全く一新されたのです。一方廃刀令は武士たる存在を社会より姿を消す事の実証とも見るべく古く武士階級の興隆と共に創始された日本刀はその退場と共に一時歴史的舞台から姿を消したかの如くです。
 この事によって廃刀令以後日清戦争の起こるまでは刀鍛冶の最も不遇な時代であったのです。刀工は俄かに困窮の悲境に打ち沈んで居ります。
 しかし、この困難な時代にあっても刃物農具の傍鍛錬技術の保存が細々と続けられて来たのです。この恵まれざる時代の辛苦こそは我々の忘れてはならないものといわなくてはなりません。
 明治大帝は深き御叡慮を以て月山貞一と宮本包則を帝室技芸員となし給いこの道に対するご奨励を賜ったのです。森岡正吉等は砲兵工廠にあって鍛冶を続け、かかる僅かな而も貴重な努力が昭和まで持ち越されたのはその界の為に全く幸であったといわなくてはなりません。貞一、包則が共にこの明治の不振時代に戦って来たことが今更感謝されるのです。
 昭和の興隆はかかる先人の不屈の遺志を以て保存された業績を基礎として展開されたものですから、我々は先以て其の人々に満腔の敬意を捧げる事に致したいと思います。

(「日本刀要覧」より)

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